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志村けんさん、ありがとう!!
加藤は番組の最後で志村さんへの弔辞を読んだ。
弔辞 志村…ひどすぎるぞ、お前!
1番、若いお前が、俺たちを差し置いて、天国に行っちゃうなんてなぁ。
まだ、俺たちと一緒にやらなきゃならないことが、たくさんあっただろう。
それを勝手に、1人で先に行っちゃうなんて…
お前はバカだよ。
天国の長さん(いかりや長介さん)も、まさか、お前が最初に来るなんて、思ってなかっただろうな。
びっくりしたと思うよ。
長さんの次は、高木ブーだと思っていたもんな(笑)
でも、久しぶりに2人っきりで、いろいろな話が出来るから、長さんも喜ぶんじゃないかな?
まぁ、いずれ、そう遠くないうちに、俺たちもそっちに行くと思うから、それまで長さんと酒でも酌み交わしながら、ドリフの新しいネタでも考えていてくれよ。
5人がそっちに全員集合したら、そっちのお客さんを大爆笑させようぜ。
約束だぞ。
じゃ、それまでゆっくり休んでくれ。
大好きな志村へ。
一方、天国では…
ワイスピのドミニクも顔負けだな
ワイスピのドミニクも顔負けだな
ランボルギーニが欲しくて... 5歳児が自家用車で買いに出かける。幹線道路で警察に見つかる
発見した警察官は「予想していなかったものを目にした」と驚いている。
男の子は驚く警察官に対して、母親がランボルギーニを買ってくれないことで喧嘩になったと説明。母親との口論の末に、自らカリフォルニアまでランボルギーニを買いに行こうと、家の車の鍵を持ち出したという。
高速警備隊は「彼の財布にはたった3ドルしかなかったので、購入資金は足りて
いなかったようです」と、続くツイートでつづっている。
男の子が乗っていた車を止めたリック・モーガンさんは、AP通信の取材に対して、はじめは飲酒運転や運転手に医療上の緊急事態でも起きているのかと思ったと説明。ところが車に近づいてみると、「予想していなかったものを目にした」と語っている。
モーガンさんはこう続ける。
「窓が開くと、運転席にいた運転手は若く、年齢が低いのが明らかでした。彼は車を停止させるためにブレーキペダルに足が届くよう、私がその場に立っている間、座席の前の端っこに座っていました」
モーガンさんは 、車を公園に移動させるのを手伝った後、エンジンを切り、男の子の両親を探し当てた。地元テレビ局のKUTVによると、男の子は自宅から2マイル(約3.2キロ)ほど移動していたという。
両親が仕事に行っている間、未成年の姉が自宅で男の子の面倒を見ていたが、「見失ってしまった」という。姉はKUTVに対して、面倒を見ている間に眠ってしまい、目が覚めたらこの悪夢のような状況だったと説明している。
「車がなくなっていました。彼もいない。そして鍵がなくなっていて....。何を考えていたのか分かりませんでした」
男の子の家族は地元紙に対して、男の子は過去にこのような行為をしたことがなく、どうやって車を走らせることができたのか分からないと話している。
男の子はこの出来事について話すのをためらっていたが、「運転が上手だと警察に言われた」と一言だけ語ったと、KUTVが伝えている。
5歳だったら普通コレ👇くらいでしょ?
これまでのマスク事情
これまでのマスク事情
新型コロナウイルスの制圧に成功したとして、今なお流行に苦しむ他国にマスクの支援を展開する中国ですが、やはり一筋縄ではいかないようです。
中国が国外に不良品マスクばかりを出しているという事実を明らかにするとともに、各国が本気で脱中国に動かなければ国が滅びる可能性すらあります。
4月21日、台湾政府から日本に寄贈されたマスク200万枚が成田空港に到着しました。
その包み紙には、「台湾日本友好」「日本加油」(日本頑張れ)と書かれてあったそうです。
超党派議員連盟の「日華議員懇談会」の会長である古屋圭司衆院議員は、「困った時に手を差し伸べてくれる方こそ真の友で感謝する。日本と台湾の友好信頼関係の絆はますます強くなっていく」と述べました。
これに対して台北駐日経済文化代表処の謝長廷代表は、1999年9月に起こった台湾中部大地震のときに日本の救援隊が大活躍したことや、台湾が東日本大震災や熊本地震の際にも救援物資を贈ったことをふまえ、「新型コロナウイルスと闘うために世界が団結しなければいけない。
台湾と日本は災害の時、お互いに助け合う伝統がある」と話しました。
中国およびWHOにより、世界的な防疫連携の輪から外されている台湾ですが、皮肉にも、WHOが最初に発していた武漢肺炎への楽観的意見に従わず、当初から中国との往来を中止するなど厳しい水際対策を行ってきたことで、台湾は世界でももっとも新型コロナウイルスの被害が少ない国となりました。
台湾はタイに対しても、20万枚のマスクを寄付しています。
一方、中国も他国へマスクを支援するなど「マスク外交」を展開していますが、その裏で、良品は自国用に徴収し、不良品を他国への輸出や援助に回しているといった実態が明らかになっています。
JBpressの報道では、中国でマスクを生産する外国企業でも、中国当局からの命令で、マスクの出荷が差し押さえられ、不良品だけが海外へ輸出されているといいます。
さらに樋口氏は、有事の際に中国人従業員を予備役として招集でき、民生用資源を徴用できるとした中国の「国防動員法」が背景となってマスクが戦略物資として扱われていることも、日本へマスクが届かない理由として挙げています。
日本では妊婦用に配布されたマスクに、黄ばみや髪の毛、虫などが混入していたことが問題となっていますが、これらはいずれも中国やベトナム、ミャンマーなどから調達したものだということです。
前述したように、中国が不良品ばかりを輸出用にしていることが影響しているのだと思います。日本側の検品体制にも問題がありますが、それ以上に、中国に製造拠点を持つことの問題点が、ここでも浮かび上がってきます。
中国は世界のマスク生産力の85%を占め、日本のマスクの約8割は中国から輸入されているといいます。そのため、同様のことが世界中で起こっています。
たとえばオランダは中国から医療用のN95というマスクを輸入しましたが、3月に到着した130万枚のうち、60万枚が不合格だったため、すべてを不良品として返品しました。
そのような不良品にも品質証明書が付けられていたといいますから、いかにも「中国らしい」といえるでしょう。
また、3月中旬にはスペインとチェコに送られた数十万枚の新型コロナウイルスのテストキットも不良品ばかりだったということです。
フィンランドでは、中国から購入した200万枚のマスクと呼吸用防護服23万個が全部不良品だったそうで、国家緊急供給庁の責任者が辞任する騒ぎとなっています。
オランダ政府の台湾に在外公館であるオランダ貿易暨投資弁事処は、公式フェイスブックページに「最前線で働くオランダの医療関係者は長くサージカルマスクの不足に直面していました。
彼らは同じマスクを繰り返し使ったり、工事現場で使われるようなマスクを購入したりしています。
台湾が貴重な資源をオランダと共有し、マスクを寄付してくれることに感謝します」というメッセージを投稿しています。
このようなところでも、中国と台湾の国としての姿勢や民度の違いがはっきりと出ています。
世界的な困難のために一致団結を呼びかけ、困っているところにマスクを届ける台湾に対し、中国は「ウイルスはアメリカがばら撒いたかもしれない」などと責任転嫁するばかりか「世界は中国に感謝すべき」とまで言い出し、ここぞとばかりに儲けに走り、しかも不良品ばかりを売りつける。
そんな中国が台湾を統一しようというのですから、それは無理だというものですし、台湾が中国に飲み込まれることは、世界の損失でもあるといえるわけです。
あまりに各国からの苦情が相次いだため、中国当局は医療関連物資の輸出に許可制を導入しました。とはいえ、どこまで効果があるかは未知数です。
前述したように、中国政府が良品を押さえてしまい、輸出されるのは不良品ばかりという構造があるからです。
コロナ感染拡大を受けて、中国では2万8,000社以上が医療分野に新規参入しているそうです(「日経新聞」電子版2020年4月17日付)。
1~3月期のGDP成長率マイナス6.8%と発表した中国政府(この数字自体が、あまりにも小さくて嘘くさいですが)にとって、この「コロナ・バブル」は願ってもいないチャンスでしょう。
それだけに、許可制にしたというのも名目だけ、いざとなれば、「保存管理が悪かったからだ」などと相手国のせいにするのは目に見えています。
かわいそうなのは、中国の「借金の罠」に嵌っている途上国です。こうした不良品を大量に押し付けられても文句が言えず、その結果、感染が拡大する可能性があるからです。これは中国による2次被害ともいえる状況です。医療品まで中国に依存してしまったツケが回ってきたともいえます。
今後、各国は本気で脱中国に向かわなければ、亡国の危機すらありえると言ってもいいでしょう。
志村けんと6人目のドリフターズ
志村けんと6人目のドリフターズ
メンバーの荒井注が休業という名目で74年にドリフを脱退したことにより志村は正式メンバーに昇格しました。
それにしても、なぜ志村が選ばれたのだろう?
志村よりも先に舞台デビューし、ブルース・リーのモノマネで人気を博していたすわしんじを昇格させるほうが順当だった感は否めなかった。
長さんの友達でバンドリーダーで指揮やってる人で、豊岡豊という人物です。
それに反対したのが加藤茶。
一緒に回ってて、作り方も全部知ってるし、考え方も同じ奴って言ったら志村しかいないんです。
『志村入れようよ』
と加藤茶がいかりや長介に言ったのが決め手になりました。
その当時の加藤茶の心情を本人がこう語っています。
「自分もだんだんキツくなってきたから。志村が入ってくれることで、広がりができるじゃない。あの時はしんどくて、ネタもあんまり出なくなってきてたし。志村は俺と年中ふざけ合ってたから『こいつ、面白いかもしれない』って入れたら、案の定、ああやってブレークして」
この時の加藤茶の先見の明が功を奏して日本の喜劇王「志村けん」が生まれることになります。
リアルタイムで8時だよ全員集合!を観ていた私は出たての志村けんを快く思っていなくて、なぜ加藤茶を多く出さないんだ!と不満に思っていました。
そして、「すわしんじの方が面白いのに」と思っていた1人です。
しかし「東村山音頭」で一気に風向きが変わりました。
新潟市民会館で行われた『少年少女合唱隊』コーナー。
この時のテーマは『民謡』で新潟ゆかりの曲やゲストの出身地の民謡が歌われる中、ラストに歌ったのが志村けんの『東村山音頭』だった。
この曲は、たまたま志村が鼻歌で歌っていたのをいかりやが聴いて、とりあえず出してみたという偶然的なものだったが、これが大ウケ。
9月にはシングルで発売され好セールスを挙げる。
東村山市長から『市の知名度を上げた』ということで感謝状も贈られている。
このブレークにより、ドリフターズの一員として、コメディアン・志村けんが世間に認知され、第2期ドリフの快進撃の幕開けとなった。
志村けんが不動のメンバーとなったことにより、すわしんじは6人目のドリフターズと言われることはあったがドリフに仕えた16年間、正式メンバーには入ることが出来ませんでした。
しかし、天才は天才を知るというのでしょうか?
志村けんはすわしんじの笑いの才能を買っていて自分の番組に呼んだりしていました。
志村けんの笑いは入念に考えて、打合せをして、訓練して、時間を掛けて練りに練ってお客さんに見せることで有名ですが、俳優の柄本明とすわしんじの場合はコントの設定のみ伝えてアドリブでコントをしたそうです。
コント中に仕事を忘れ、楽しんでコントしてる志村けんを観てる私達まで楽しくなって大笑いしてしまいます。
👇に二人のコント動画を貼り付けます。必見です!
志村&すわのおもしろコント1
志村&すわのおもしろコント2
志村&すわのおもしろコント3
志村&すわのおもしろコント4
今見てもこの二人の絡みは最高に面白いですね😄
ドリフターズとしてまた残った4人でのコントも観たかったけど、すわけんじとのコントももっと観たかったなぁ…😥
志村けんさんは子供の頃、私のヒーローでした!
志村けんさんは子供の頃、私のヒーローでした!
月曜日には教室で友達とドリフの話で盛り上がり、コントのマネをしたものです。
当時はカトちゃんの「ちょっとだけよ❤️」の意味も分からずマネごとをしていました😆
そんなドリフターズのメンバーも長さんが亡くなり‥
そして志村けんさんまでも天国へと旅立ってしまいました😢
私達が子供の頃にドリフターズに出会えて本当に良かった。
当時は子供の教育によくないと反対する親もいましたが、今のようにネットやYouTubeなどもない時代はドリフターズこそが心のオアシス‥いやヒーローでした。
志村けんさん、
笑いをありがとう。
ご冥福をお祈りいたします
ドリフターズのメンバーが志村けんさんを語った貴重なコメントを紹介します。
いかりや長介
「いかりや長介と志村けんとの出会い」
『8時だョ!全員集合』が始まる1年前の1968年2月。
志村はいかりやの自宅を苦労して調べ、新宿から30分トボトボ歩いて、いかりやを訪ねた。
しかしいかりやは仕事で留守。仕方なく志村は玄関口で12時間待ち続けた。雪の降る寒い日だったという。
ようやく現れたいかりやの顔の迫力に驚きながらも、弟子入りを志願した志村にいかりやは「ボーヤで苦労する気があるのなら」と答えた。「ちょうど辞めそうなのがいるからその時連絡する」と。
志村のもとに連絡が入ったのはそれからわずか1週間後のことだった。
後楽園ホールに呼び出された志村は新しいボーヤとしてメンバーに紹介された。
まだ高校の卒業を控えていた志村は「4月からやらせていただきます」というと、「バカヤロウ、明日からだ!」とさっそくいかりやの雷を浴びたのだ。
加藤茶
ザ・ドリフターズの加藤茶がたけしの番組のスペシャルゲストとして出演して、たけしとお笑い談義を繰り広げた頃がある。
かつては『8時だョ! 全員集合』と『オレたちひょうきん族』という人気番組に出演するライバルとして激しい視聴率争いを繰り広げてきた2人が、貴重な共演を果たしたことになる。先輩である加藤がたけしのことを「たけしくん」と呼び、たけしが後輩らしく気を使っている姿が印象的だった。
2人の会話の中で特に興味深かったのが、1974年に荒井注がドリフから脱退して、付き人だった志村けんが加入したときのエピソードである。荒井注の脱退はドリフのメンバーにとっても青天の霹靂だった。これまで通りのコントを続けていくためには、新しくメンバーを加えるしかない。
当時、ドリフには新メンバーの最有力候補と噂されている人物がいた。
ドリフの付き人を務めていたすわしんじ(現・すわ親治)である。
すわは準メンバーのような形で『全員集合』にも何度も出演していた。
ブルース・リーのモノマネで奇声を発して舞台を横切っていくギャグが評判だった。
「6人目のドリフ」と言われるほどの活躍ぶりだったのだ。
そんなすわに関して、たけしも番組内でこう述べていた。
「俺らは見てて、笑い取るのはあの当時ブルース・リーのが取ってたような気がするんだよね。だけど志村のけんちゃんは、どうして勝ったのかなっていうと、ネタが広いのかね」
なぜすわではなく、志村が選ばれたのか?
この素朴な疑問に対して、加藤は意外な答えを返した。
実は、いかりやの当初の予定では志村でもなくすわでもない、別の人物を加入させる予定だったというのだ。
「長さん(いかりや)がね、荒井さんと同じ年のやつを入れようと思っていたのよ」
その人の名前は豊岡豊。
「豊岡豊とスウィング・フェイス」というバンドのリーダーとして指揮者を務めていた人物だ。
いかりやは、個人的に親交が深く、笑いのセンスもあった豊岡を加入させようとしていた。
しかし、加藤はそれに反対した。
テレビの仕事や営業を長年一緒にこなしてきて、ドリフのコントの作り方もよく分かっている志村を加入させた方がいい、といかりやを強く説得したのだ。
結局、いかりやが折れて、新メンバーは志村になったというのだ。
そして加藤のこの行動がその後のお笑い界の歴史に大きな影響を与えることになる。ドリフに加入した志村は、初めのうちはなかなか活躍できなかったものの、「東村山音頭」のギャグなどをきっかけに頭角を現し、加藤と人気を二分するドリフのエースとなった。
その後、『8時だョ! 全員集合』が終了すると、加藤と志村だけを残す形で新番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が始まった。
そこから現在に至るまで、志村はテレビやライブで長年にわたりコントを演じ続けるお笑い界のレジェンドとなった。
この話を聞いたたけしは、自分を脅かすような存在の志村をあえて加入させたのがすごい、と加藤の行動に感心していた。
加藤によると、自分だけが笑いを取る役目を課せられていて、それを重荷に感じているところもあったのだという。
「ちょっとだけよ」「すんずれいしました」「ウンコチンチン」などの伝説的なギャグの数々で日本中を爆笑の渦に巻き込んできた加藤は、華々しい活躍の影でそれだけの苦労を重ねてきたのだ。
仲本工事
「志村は誰よりも新しい笑いに貪欲なんですよ」
―― 『全員集合』の途中で、メンバーが荒井注さんから志村けんさんに変わりました。付き人時代の志村さんの印象はありますか?
仲本 志村はやる気があったから、付き人やりながら自分でコンビ組んで、営業の仕事もしてたんです。本当に一生懸命でしたね。コンビのネタは、志村が全部考えてたんだよね。でも、志村がウンウン考えてる横で、相方は新聞の求人広告見てたんだってさ(笑)。そういうところは苦労してるし、荒井がやめて志村が入ったときも、慣れるまで大変だったと思うよ。まさに志村は努力家だよね。
―― 仲本さんが感じている、志村さんの魅力って何でしょう?
仲本 誰よりも新しい笑いに貪欲なんですよ。とにかくいろんな笑いや音楽を見たり聞いたりしてましたね。それを取り入れるのがすごく上手かった。ほら、早口言葉の音楽があるでしょ。「生麦 生米 生たまご イェー!」っていうの。あれも、志村が「これがいいんじゃないですか」って言うんでそうしたんだよ。
―― 加藤さんの魅力とはまた違いますか?
仲本 加藤は天才だもん。思わず口について出ることが面白いし、いるだけでホッとするとこもあるしね。テレビに出始めのころなんて、ほんとにかわいくて、いい男でしたよ。今でいうと、お笑いもできるアイドルみたいだよね。だから加藤は天才、志村は秀才かな。
高木ブー
どうして志村けんが加入したのか?
―― 1969年に『全員集合』が始まり、最高視聴率50%超のお化け番組になっていきますが、5年目に荒井注さんが体力の限界を理由に脱退します。あれは直前に聞いたんですか?
高木 うん。一応、いかりやさんから僕のところにも話があった。これからどうしようかって。僕は「4人じゃおかしくないか」って意見を言ったかな。「全員集合」って言葉は、番組が最初じゃないんですよ。ジャズ喫茶のとき、音を間違えると、いかりやさんが真ん中で「全員集合」って叫ぶの。そしたら、両サイドから2人ずつ集まってくるっていうギャグをやってた。それが2人と1人だとバランスおかしいでしょって、言ったことあるよ。まあ、それだから志村を選んだわけじゃないだろうけど。
―― 志村さんはドリフのボーヤ、いわゆる付き人だったんですよね。ボーヤ時代の志村さんで、何か印象に残ってることはありますか?
高木 うーん……。ボーヤだねって印象しかないかな。
―― 他のボーヤの方との違いなどは。
高木 ボーヤはいっぱいいたからね。志村は、「マック・ボンボン」というコンビを作って一度独立して、またボーヤで戻ってきたの。あと、すわ親治って知ってる?
―― はい。すわさんもドリフのボーヤで、『全員集合』のコントにも出演してましたよね。
高木 志村がいなければ、すわ親治が入ってたでしょうね。
―― 当時は、すわさんが加入するという噂もあったそうですが、どうして志村さんになったんですか?
高木 順番でしょう。荒井注が辞めて志村、次に僕が辞めたらすわ親治、そんなところでね。
―― ドリフ加入後の志村さんは、どんどん人気者になっていきますが、高木さんはどんな風に見ていましたか?
高木 それはまあ、しょうがないよ。これは年齢の違いもあるんだろうけど、加藤に対する志村のツッコミ、あの呼吸には僕ら、かなわないもんな。今の漫才の人たちは動きができないけど、加トケンの動きっていうのは、ちょっと大変なもんだよね。
観るではなく体験する映画「1917」
観るではなく体験する映画「1917」
映画のコレクション500本以上の映画マニアの私が言います。
今まで数々の戦争映画を観てきましたが衝撃度で言ったら間違いなくこれが一番です!
これから観る人のためにネタバレは控えますが、私が戦争映画で傑作だと思っている以下の6作にこの「1917命をかけた伝令」が加わることになりました。
『ライフ・イズ・ビューティフル』
『ノー・マンズ・ランド』
『プライベート・ライアン』
『大脱走』
『この世界の片隅に』
『日本のいちばん長い日』
「1917命をかけた伝令」
全編ワンカットで進む映像はまるでその場に居るかのような臨場感を観る者に与えて2時間があっという間に過ぎました。
「これどうやって撮影したんだろう?」
「ここでセリフ間違えたらまた最初から取り直しか?」
などと違う面でもハラハラさせながら鑑賞したから時間が経つのを忘れてしまいました。
これは何度も観たい映画ですね。
「1917命をかけた伝令」は観るのではなく体験する映画だと思いました。
だからこそ家の小さなテレビで観るのではなく、映画館の大画面スクリーンと音響で体験することをお薦めします。
私が体験しに行った映画館は上映3日目に関わらずスカスカの空席で、ほぼホームシアターで1人で鑑賞してる状態でした(゚∀゚)💦
(このように映画館のド真ん中の特等席です😁)
これは逆に私にとっては好都合で隣にポップコーンを食べてる人がいる訳でなく、
隣に香水がキツメのボインのお姉ちゃんが隣にいる訳でもなく、
映画に集中できたから良かったと思います😁
まだ2月だけど2020年の映画No.1では?