寅さん、また映画館で会いましょう

寅さん、また映画館で会いましょう💖 

寅さん、また映画館で会いましょう💖
映画「男はつらいよ」で寅さんを演じた渥美清さんが亡くなって20年が過ぎました。

山田洋次監督、倍賞千恵子さん、前田吟さん、佐藤蛾次郎さんら“山田組”が再び集まり、思い出を語り合いました。



「会社には反対されたんですよ」


山田監督は冒頭、映画化する際の逸話を明かした。松竹の反対を押し切って制作したが、試写室にはまったく笑いが起きなかったという。

「なんだこの映画。ちっとも可笑(おか)しくない。僕も落ち込んだし、会社も絶望したんじゃないですか(笑)」

 ところが、封切られて間もなく、自宅にプロデューサーから電話が入る。



「おいっ、(客が)入ってるぞっ」


小田急線に飛び乗り、新宿の映画館へ駆けつけてみると、館内は観客の笑い声で揺れていた。


「驚いたね。その時のことは一生忘れないなぁ」


 山田監督は思い返した。

男はつらいよ」シリーズは1968年のテレビドラマからスタートし、翌年映画化。「男はつらいよ 寅次郎 紅(くれない)の花」(95年)までの全48作は、世界に類のない長寿シリーズとしてギネス世界記録にも登録されている。

48作すべてに出演し、「さくら」と「博」としてファンに親しまれた倍賞さんと前田さんは、シリーズ初期のころのエピソードを披露した。



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「さくらのアップになったりする時、渥美ちゃんは変な顔して笑わせるんですよ。カメラの高羽(哲夫)ちゃんから何度も『倍賞くん、笑わないのー!』って(笑)」(倍賞さん)



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「『痛っ』っていう台詞(せりふ)でも、僕らは『イテテテテ!』ってやらなきゃならないんだけど、渥美さんは『アタタァ……』って、独特なの。こんな人はやっぱりいないんだ。これでOKになっちゃうし、おもしろいし。すごいなと思ったよね」(前田さん)


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 帝釈天寺男、源公役でおなじみの佐藤さんは、


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「山田監督には『男はつらいよ』の前作で採っていただいた。2時間半遅刻してたばこ吸って足組んでオーディションを受けたんですけど。それでも使っていただいて(笑)」

松竹の若手社員から、「寅さんは、さくらに恋愛感情をいだいていたのでは?」という鋭い質問も。


 山田監督はこう返した。

「兄と妹は、異性でありながらセックス抜きなわけですよね。いつまでも愛し合える。(『男はつらいよ』は)寅さんとさくらの永遠のラブロマンスだったのかもしれませんよね」



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映画「男はつらいよ お帰り 寅さん」のプレミア試写会が行われ、山田洋次監督、倍賞千恵子後藤久美子らが取材に応じた。
22年ぶりにしてシリーズ50作目となる今作には、渥美清さんが演じた主人公・車寅次郎も登場する。
山田監督は「編集を終えたとき、寅さんだけが年を取らず、幻のように存在していた」と感慨深げ。
倍賞は「50年をかけて、この映画を撮り終えた気がします」と語った。
その後の舞台あいさつでは、登壇したキャストに向けて、観客から大歓声と共にスタンディングオベーションが送られた。

~12月27日(金)全国ロードショー 配給:松竹~



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お帰り 寅さん

また、こうしてあなたに映画館で会える日が来るとは思ってもみませんでした😢


この映画シリーズは日本の誇りです。
 
 
アメリカよ、これが映画だ!」
 
 
海外でも寅さん旋風が押し寄せています!
 
 

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女性にだって寅さんは憧れの存在です!
 
 
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でも、やはり本物の寅さんが一番!!
 
 
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寅さん、また映画館で会いましょう💖
 

 

因縁の二人、ライガー 対 鈴木みのる

因縁の二人、ライガー 対 鈴木みのる
引退間近のライガーが因縁の相手、鈴木みのるとシングルで試合をしました。

最近のプロレスは大技を繰り出し合ったり、飛んだり跳ねたりと可憐な技の応酬がメインでプロレスブームが起きています。

そんな中、50歳を超えた二人のこれが昭和プロレスという試合が繰り広げられました。

先ずは試合の解説よりも二人の因縁を知らないと試合の楽しみが半減…いや、10分の1も楽しめないので、二人の関係から紹介したいと思います。


来年、1月4日、5日に開催される新日本プロレスの東京ドーム大会での引退を表明している獣神サンダー・ライガー
 
 
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ジュニアヘビー級のレジェンドだけに、国内外の多くのレスラーから「引退前にもう一度闘いたい」という対戦希望の声が上がっているが、先の新日本プロレス『Road to レスリングどんたく2019』シリーズでも、またひとり、ライガーとの一騎打ちに名乗りをあげる男が現れた。鈴木軍のボス、鈴木みのるだ。
 
 
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4.24新日本プロレス後楽園ホール大会、「獣神サンダー・ライガー デビュー30周年記念試合」で、ライガーと鈴木は、それぞれタイガーマスク田口隆祐金丸義信エル・デスペラードとトリオを結成し、タッグマッチで対戦。

この試合前、マイクを持った鈴木は「おまえ、あのとき言ったよな。『2年ぐらい時間よこせ』って。いつまで待たせるんだよ。それともなにか、『体力が衰えて怖いから、もうあなたとはできません』ってことか?(笑) おい、どうすんだよ?」と、ライガーを挑発。そして「獣神サンダー・ライガー30周年のプレゼントだ!」と、オープンフィンガーグローブを投げつけた。



ライガーと鈴木は、いまから17年前の2002年11月30日、パンクラス横浜文化体育館大会において、パンクラス総合格闘技)ルールで対戦。


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この時は、鈴木がこのルール初挑戦のライガーにマウントパンチからチョークスリーパーで一本勝ち。
試合後、短い準備期間でこの試合に臨んだライガーはマイクを持ち、「もう一回やろう。でも、すぐというわけにはいかん。2年ぐらい余裕をくれ。次はブチのめす!」とアピールした。

なぜ、いまになって鈴木は、あらためてライガーとの再戦をアピールし始めたのか?
それは、あの17年前の一戦が、鈴木のレスラー人生にとってきわめて重要な試合のひとつだったからだろう。


もともと鈴木にとってライガーは、新日本の若手時代、もっとも仲のいい先輩のひとりだった。それが'89年春、鈴木は新日本を退団して第2次UWFに移籍。ライガーは素顔から覆面レスラーの“獣神ライガー”に変身して、第二のレスラー人生がスタートし、ふたりは別々の道を歩むこととなる。

その後、鈴木はUWFプロフェッショナルレスリング藤原組を経て、'93年に船木誠勝らとパンクラスを旗揚げし、プロレスから総合格闘技へと足を踏み出す。
そして'95年5月にケン(ウェイン)・シャムロックを破り、キング・オブ・パンクラスの王座を奪取。
しかし、'96年に頚椎ヘルニアの大怪我を負い長期欠場。
そこから連敗を重ねるようになる。
完全実力主義、リアルファイトのリングでは、勝てなくなった選手に居場所はない。鈴木は肉体的にも精神的にも追い込まれた。

鈴木はインタビューでこう語った。
「自分が理想として掲げていた格闘技の世界では、俺みたいに勝てなくなったヤツは身を引くしかない。だから、あの頃は引退することばかり考えていた。本当は辞めたくないのに、自分の気持ちに嘘をついてね」



そして2002年に引退を決意。最後のケジメとして、若手時代のライバルである佐々木健介パンクラスのリングで、新人の頃の気持ちに戻ってがむしゃらに闘い、燃え尽きようと考えた。
当時、ちょうど新日本とパンクラス交流戦を行なっていた時期であり、新日本所属だった健介とのカードを組むことが可能だったのだ。

ところが対戦を正式発表したあと、健介は足のケガなどを理由にこの一戦を辞退。
鈴木の“最後の試合”は宙に浮いてしまった。

「あの時は、自分が情けなかったね。その前は、DEEPのリングでUWFの後輩である田村潔司と闘うという話もあったんだけど、それも流れて。勝てなくなったヤツには、自分の“死に場所”すら選べないんだなって」

そんな時、鈴木の携帯電話が鳴る。相手は獣神サンダー・ライガーだった。

健介戦の話がなくなって、もうどこにも行き場がなくなったとき、ライガーから電話がかかってきてさ。『おい、健介がおまえとやらないって聞いたぞ? なんでアイツやんねえんだよ!』って言われてね、『何回聞いても“できない”としか言わないんですよ』『なんなんだアイツ』『知らないっスよ』みたいなやりとりがあって。


そのあと『そこまで話が進んでいたのに、どんな理由があるにしろ“出られない”ってなったら、おまえは健介が逃げたと思うだろ?』って言われて、『思います』って答えたら、『ってことは新日本がおまえから逃げたってことになるんだよ。俺は絶対それを許さない。俺がやる。新日本は逃げねえからな。マスク脱いででもなんでもいいよ、やるよ』って言ってきてね。俺、感動しちゃったんだよ」

かつての先輩が、鈴木の行き場のない思いを受け止めてくれたのだ。


2002年11月30日、鈴木はライガーパンクラスのリングで対戦。すると、抑えていた感情が溢れ出した。「どうしても、もう一度プロレスをやりたい」と強く思うようになったのだ。しかし、プロレスに復帰すれば、パンクラスを作ってからの自分の発言を覆すことになる。

「でも、どうしてもやりたい気持ちはもう抑えられなかった。だから、それまで築いてきた自分のイメージ、パンクラスの仲間たち、支援してくれた人たちやファン、すべてを失う覚悟で戻ったんだ」

2003年、35歳でプロレスに復帰。あのライガー戦なくして、いまのプロレスラー鈴木みのるは存在しなかったのである。



そしていま、鈴木は引退を決意したライガーと再び闘おうとしている。それは17年前に約束した“総合格闘技ルールで”というわけではない。

4.23後楽園での試合後、鈴木みのるオープンフィンガーグローブを床に叩きつけてこう語っている。

「べつにこんなもの付けてなくてもいいんだ。俺が殴ればいいんだ、蹴ればいいんだ、首絞めればいいんだ。俺はおまえのトドメをさせればそれでいい。ライガー、おまえの口で答えろ!」

鈴木は17年前のあの一戦以降、自分が培ってきたプロレスをライガーにぶつけるだろう。

そして鈴木に負けてからブラジリアン柔術を学び始め、現在紫帯を取得しているライガーは、その技術も駆使して、自分のプロレスで勝負することだろう。

鈴木みのるvs.獣神サンダー・ライガーは、いまだからこそやる意味がある。


そうして迎えた10.14両国国技館獣神サンダー・ライガーvs.鈴木みのるの一騎打ち!

なんと、伝説のバトルライガー仕様で登場!
 

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解説はいつものメンバーで山ちゃんとミラノ、そしてゲストに棚橋
 
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試合開始序盤はお互いに探り合い
 
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ライガーが自ら寝そべりグランド勝負へと挑発
 
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しばらくバックの取り合いをした後に、今度は鈴木がグラウンドに誘う。
 
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場外戦を仕掛けたのはライガーだったが逆にイス攻撃を受けてしまう。
 
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リングに戻って寝技で鈴木を追い込むライガー
 
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腕折を仕掛けるライガー
 
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2連続の腕折を仕掛けたが3度目でスリーパーを決められる。
 
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その後は打撃の応酬
 
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掌底合戦は鈴木の威力の方が上回る。

しかし、ライガー起死回生の垂直落下式ブレンバスターが炸裂!
 
 
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最後は意地と意地の張り合い
 
 
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最後は鈴木みのる得意技
ゴッチ式パイルドライバー

鈴木は上空を指差す👆
 
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ガッチリ腕で固定して…
 
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その場でジャンプ!
 
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脳天からマットに叩きつけた!
 
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そのまま3カウント!
 
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ピクリとも動かないライガーの前で立ち尽くす鈴木みのる
 
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すると鈴木みのるが…
 
なんと!
 
土下座
 
 
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あの世界一性格が悪いと言われた鈴木みのるが…

深々と土下座をした。

それはお辞儀では表すことが出来ない最高位の感謝の気持ちを鈴木みのるが示したのだ。
 
 
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ライガーは倒れたまま泣いていた。
 
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頭を上げた鈴木みのるは複雑な表情をしていた。
 
 
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解説をしていた棚橋は二人の因縁を間近で観ていた一人なので感極まって泣きそうになっている。
 
 
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ダメージが回復したライガーは立ち上がり、花道を後にする鈴木みのるにこう言った。
 
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この言葉に涙を我慢していた棚橋は泣いた💧


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私も泣いた💧💧


ありがとう ライガー

そして ありがとう 鈴木みのる

いい試合観せてもらったよ。
 
 
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日本人が誇りにすべき会社とは‥?

日本人が誇りにすべき会社とは‥?
人は行動に移したくても柵(しがらみ)により行動に移せないものです。

ましてや会社のトップともなると社員ならびにその家族も養わなければなりません。

そういった立場でも勇敢に行動に移した人達がいます。

会社にとって利益になる訳でもないのに、無償で社会に貢献した人達です。
 

解体業者フジムラはどんな会社?市原ゴルフガーデンの無償撤去理由や藤村一人会長の経歴も!

台風15号で沢山の家が壊われたり大変な状況となりました。千葉県市原市ではゴルフ練習場『市原ゴルフガーデン』の鉄柱が倒壊し、民家16軒が損壊した事故で一体誰が補修するのか連日ニュースで取り上げられています。
 
 
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当初ゴルフ場のオーナーが全て補修・保証をしてくれる話だったのが弁護士が間に入ったことにより、話が進まなくなってしまい、住民の方々の不安や怒りが増す中、突如鉄柱を無償で撤去してくれるという解体業者『フジムラ』が現れました。

保証の面ではまだまだ話は進んでいませんが、まずは邪魔な鉄柱を無償で撤去してくれる業者さんの存在は住民にもゴルフ場オーナーにとっても大きいかと思います。

鉄柱が倒れて翌日には、市原市に撤去の協力をしたいと手を挙げ、調整を進めていた解体業者『フジムラ』はどんな会社なのでしょうか?
無償撤去理由や社長の藤村一人さんの経歴なども紹介したいと思います。


 
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2006年(平成18年)2月、グループ会社の株式会社フジムラMプランナーと株式会社フジムラ企画を設立。

日本有数の解体業者であり、その規模、工事経験、卓越した技術力と機動力によって知名度が高い会社。

株式会社フジムラは日頃からみんなでアイデアを出し合い、社内で活発に話し合うことを重要視しています。


市原ゴルフガーデンの無償撤去理由

スポニチの記事によりますと、株式会社フジムラの会長である藤村一人さんは、「困っている人を助けたい」という理由で無償で請け負うことを市原市と練習場の女性オーナーに申し入れたのだそうです。

しかも、鉄柱が倒れて翌日に手を上げたのだから凄いですよね。

鉄柱の撤去にはおよそ2ヶ月かかるというのだから、その経費はかなりだと思われます。

行政や当のゴルフ場オーナーがもたもたしてる中、地元ではない藤村会長の素早い行動。とても格好いいです。



1.会社の利益よりも人の心情を優先する藤村会長!

 
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美智子上皇后陛下のご生家正田邸が相続税で物納された際解体を入札で請け負った㈱フジムラ。しかし、保存を望む近隣の声に耳を傾け、当時の藤村一人社長は解体工事の辞退を決定。「一度男が口にした事は絶対に変えられない。」と言い、商売より日本人や社員の心情を最優先する素晴らしい方だった。〈出典:ウィキペディア


2.国立競技場解体工事において、スポーツ振興センター(JSC)と建設会社の談合疑惑を追求し、一度は無効となった入札を取り下げ落札!


国立競技場は解体されることとなり、日本スポーツ振興センター(JSC)は入札を行ったが1回目は不調におわる。

2回目から株式株式フジムラも応札するも最低額で無効となる。結果関東建設興業株式会社が落札。しかし、1回目の入札が不調であったにも関わらず、2回目において予定価格が上昇していることに気づいた藤村会長は日本スポーツ振興センター(JSC)に猛抗議に出向く。

7時間話し合いをし、書類の不備の修正を申し出たがJSCは聞き入れず。その際JSCの管理部調達管財課課長から官製談合の疑いがあるとの発言があったためJSCにより公正取引委員会に報告がなされ、更にJSC内で調査部会を設置し、調査が開始された。
しかし、結論は『官製談合はなかった』。

この結果を受け、藤村会長は弁護団を結成し、談合の疑いがある資料を提出。2回目の入札の契約は破棄となった。
この一連の経緯が第187回臨時国会参議院予算委員会で取り上げられJSCの理事長に対し、談合疑惑の追求がなされた。警察庁2課も調査に動く事態に発展。

第3回目の入札は㈱フジムラが最低価格を提示し、またしても保留。藤村会長は弁護団と伴い『特別重点調査』に臨んだ。結果JSCに認められ国立競技場解体工事を16億7292万円で落札した。第1回目の入札から約7ヶ月掛かった。〈出典:ウィキペディア




11月13日撤去が全て完了!

鉄柱の撤去に、1億円かかり、2ヶ月ほどかかると言われていました。しかしそれを無償で、しかも約1ヶ月で完了させた株式会社フジムラ。
ネットでは、称賛の声が多くあがっています。

撤去作業を見ていた人は、とても丁寧な作業だったと言っています。

無償で予定よりも早く仕事をこなす。あまりニュースで会社名を大きく取り上げていないですが、このスペシャリストは株式会社フジムラだと伝えたい。


鉄柱の撤去により、住民の方は住宅被害が拡大するのではないかと、心配してましたが、株式会社フジムラさんの高度な技術と迅速丁寧な作業で被害拡大しなかったようです。
しかも、破損した屋根にしっかりブルーシートで保全までしてくれたそうで。ほんと素晴らしい方々です。


解体業者フジムラは現在2代目である藤村一人さんが社主となり、グループ会社と共にご兄弟と奥様で経営されている会社で、規模・技術・経験すべて卓越した知名度の高い会社でした。

『困っている人の力になりたい』とゴルフ場の鉄柱の無償撤去を名乗り出た藤村一人会長は時に会社の利益よりも人の心情を優先する侠気あふれる方でしたね。

そして実際、予定よりも早く撤去完了し、住民の方が心配されていた、撤去による住宅被害の拡大はありませんでした。
その上ブルーシートで破損した屋根を補修して下さったそうで、本当に藤村一人会長をはじめ、株式会社フジムラさんの優しさと完璧な仕事に感動しました。


まさに建設業界の鏡ですね。
目先の利益を追うのではなく、無償でも社会に貢献することで行く行くは将来の利益に繋がるということでは最善の選択をしたと思います。

他にも関西の方ではこう言ったこともありましたね。



福知山線脱線事故から13年 ある2人の社長の「懊悩」と「決断」
JR西日本と日本スピンドル製造


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事故当時、指示を待つのか、付近で待機し続けたJR西日本の社員たちとは対照的に、機転を利かせて自ら動いた一般のひとたちが注目された。踏切の非常ボタンを押して約100メートル手前まで迫った特急電車に事故を知らせた通りがかりのひとや、救助活動を果敢におこなった近くの会社などの従業員、近隣住人といった人たちである。当時の新聞には「作業着を着たおじさんが救急隊より早く来た。仲間の人たちに指図して、救助に邪魔なフェンスを切り、がれきをどけて、飛び散ったガラスを掃いてくれた」との負傷者の証言が残っている。

この「現場」に、「200人以上の社員を一気に救援に出せるのはうちだけ」と社員を向かわせたのが、くだんの日本スピンドル製造の社長・斎藤十内である。事故の衝撃音を聞いて、すぐに事故現場に駆けつけた社員らは救援活動をはじめるが、しかしまるで人数が足りないからと斎藤のもとに走り、現場を見るよう乞う。そして助けを待つ無数の負傷者の姿を見た斎藤は工場の操業を止める決断をし、社員を救助活動に向かわせるのであった。

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「迷いはゼロであるはずはありません」

斎藤はその前年、低迷する業績をどうにかするべく社長に就任する。そうした状況もあってか、工場を止めることについて、「迷いはゼロであるはずはありません」と率直にふり返り、秋には「名前が売れたのに、業績が落ちたら大変だと、社員にはっぱをかけています」とも語っている。

このあたり、単純な美談ではなく、懊悩をともなう人の決断であるがゆえに、余計に響くものがある。そして2006年度の決算で13期ぶりの復配を果たすことで、「人道的な活動」と「利益の追求」は相反するものと思ってしまいがちだが、そうではないことを証明するのであった。

 
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JR西の支配者・井手正敬の「誤った人間観」

いっぽうで「利益」と「安全」が相反していたのが加害者のJR西である。地域で乗客を奪い合う阪急に競り勝つため、過密ダイヤと高速化に躍起になる最中の脱線事故であった。また救助活動をする近隣企業の従業員や住人と対照的に、脱線した電車に乗り合わせた出勤中の運転士に「遅れずにくるように」と言いつけたり、社員たちが自粛することもなくボウリング大会やゴルフコンペを行うなど、当事者意識の薄さが非難を浴びる。

刊行された松本創による『軌道』は、脱線事故の原因追及とこうした企業体質の変革を追ったノンフィクションである。ここで象徴的なのが、事故当時相談役だった井手正敬の次の言葉だ。「事故において会社の責任、組織の責任なんていうものはない。そんなものはまやかしです。(略) 個人の責任を追及するしかないんですよ」。ここに天皇とまで呼ばれたJR西の支配者・井手の「誤った人間観」「歪んだ安全思想」が浮き上がる。そして、こうした組織を変える中心となったのが、『軌道』の中心人物であるふたり、鉄道事故は「組織事故」だとするJR元社長・山崎正夫と、遺族の責務としてそれを問い続けた淺野弥三一だ。




ひとは必ずミスをするということ

山崎は、井手に嫌われ、長く子会社に出されていた。それが誰もがやりたがらない事後処理の役回りを担う社長として井手に選ばれる。誰かに指名されて役職につくと、恩義から指名した者に服従しがちなのが組織に身を置く者の習性だろう。ところが山崎は井手を追放してしまう。それは組織から追い出すのみならず、「誤った人間観」「歪んだ安全思想」との訣別の意思表示でもある。

この山崎を衝き動かし、JR西を変えていくのが淺野である。淺野は阪神大震災の復興まちづくりなどを行う都市計画コンサル業を営む。それが事故により妻と妹の命を奪われた遺族として、厳しくJR西を追及し、社員らに恐れられていた。そんな淺野も山崎に対しては「あなたも落下傘で大変やなあ」と声をかける。他の社員にない、ひと対ひとの機微、働く者同士の共振が感じられたからだろう。

かくして山崎と淺野は、安全のあり方を問い、突き詰め、変えていく。それはひとは必ずミスをするということであり、ミスは気の緩みや意識の低さからではなく、「人間の特性や諸々の環境条件から起こった結果であり、原因ではない」との考えに導いていく。「原因究明」よりも「犯人捜し」が優先される日本にあって、ひいてはミスをする人間は「教育」し直さねばならないという井手にしみついた国鉄以来の人間観を転換するものであった。

井手がカリスマたり得たのは、国鉄の分割民営化を中心人物として成し遂げたのにくわえて、阪神大震災での鉄道復旧という一大事を差配したことによる。いっぽうで救助活動をおこなったひとたちも、こうした「共助」は阪神大震災の経験があったからだと口々に語るのだった。

記憶はひとを束縛もすれば、動かしもする。「失敗学」の畑村洋太郎は、事故直後、文藝春秋に寄稿し、本気で安全対策に取り組むのであれば、事故の「動態保存」をするしかないと説いた(注5)。実際、どれほどの衝撃だったか、目で見て理解できるよう、JR西は車両は永久保存し、人が住めなくなったマンションも保存のための工事が進められている。


 
紹介した二つの会社

いずれも優良会社であり、
日本人が誇れる、
日本人気質な会社だと思います。

二社の共通点は会社のトップに決定権があり、
社会に貢献しようという素晴らしい気構えを持っていることです。
 
 
株式会社フジムラ
 
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日本スピンドル製造


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この様な素晴らしい会社とは是非とも共に仕事をしたい。

そう思いますね。
 

80年代の大物歌手による奇跡のデュエット曲

80年代の大物歌手による奇跡のデュエット曲 80年代を洋楽ばかり聴いてきた私にとって、有名な歌手同士でデュエットするということは、当時のロボットアニメで言ったら、マジンガーZゲッターロボが共演してるようなもので興奮を抑えきれない出来事でした。

それほど私を歓喜させた奇跡のデュエットを紹介していきます。




フレディ・マーキュリーデヴィッド・ボウイ
クイーンのフレディ・マーキュリーデヴィッド・ボウイの2組のスーパー・スターによる一世一代のコラボレーションで完成したシングル「Under Pressure」は1981年11月21日、全英チャートの首位へ瞬く間に駆け上った。
この曲はクィーンお気に入りのスイス、モントルーにあるレコーディング・スタジオ、マウンテン・スタジオで当時、同スタジオの近隣に自宅を構えていたデヴィッド・ボウイがある夜にレコーディング中のクイーンを訪ねたのが切っ掛けで完成されました。
その影響でフレディ・マーキュリーデヴィッド・ボウイが思うままにヴォーカルを交替で取っていたりと即興の要素が多いのが特徴で、私が大好きな曲です。



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Run-D.M.Cとエアロスミス
ニューヨークのクイーンズ出身のグループRun-D.M.C.(ラン・ディーエムシー)。アディダスのスニーカーとカンゴールのハットでヒップホップカルチャーのファッションアイコンでもある彼らはジャンルの垣根を超え、エアロスミスともコラボ。
周りの友達は皆、アディダスのスニーカーから紐を取っ払って履いていました。



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ポール・マッカートニースティーヴィー・ワンダー
ポールとスティーヴィーの豪華なデュエットで、全米1位、全英1位を記録。エボニー(黒鍵)とアイボリー(白鍵)はピアノの鍵盤で調和がとれているのに、人間にはなぜそれが出来ないのか?という人種問題をテーマにした歌詞を、黒人と白人のスーパースター同士がデュエットするという、画期的な作品でした。


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ポール・マッカートニーマイケル・ジャクソン
セイ・セイ・セイ(Say Say Say)は、1983年にポール・マッカートニーマイケル・ジャクソンが発売した楽曲および同曲を収録したシングルで2人がデュエットした曲です。


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ブライアン・アダムスティナ・ターナー
イッツ・オンリー・ラヴ('It's Only Love) は、カナダのシンガーソングライターであるブライアン・アダムスが、アメリカ合衆国の歌手ティナ・ターナーをフィーチャーして発表した楽曲です。
二人共、大好きな歌手で、その二人がデュエットするなんて…
大興奮したことを思い出します。


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フィリップ・ベイリーフィル・コリンズ
イージー・ラヴァー(Easy Lover)は、アース・ウインド&ファイアのメンバーで、高音ファルセット・ヴォーカルが特徴のフィリップ・ベイリーを、フィル・コリンズがプロデュースし、全英1位、全米2位のヒットしました。


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ダイアナ・ロスライオネル・リッチー
ラヴソングの定番「エンドレス・ラヴ」ソウル界の大御所二人が歌い上げる美しいバラードは、1981年に同名タイトルの映画主題歌としてリリース。ビルボードチャートでは9週連続1位という快挙をもたらした。


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アレサ・フランクリンジョージ・マイケル
憧れのアレサとのデュエットで緊張していたというジョージ・マイケルですが、全米1位、全英1位、のヒットに!元々はデュエット用に書かれた曲ではなかったそうですが、アリスタ・レコード社長クライヴ・デイヴィスのアイデアでデュエットに変更されたのだとか。グラミー賞ではBest R&B Performance By A Duo Or Group With Vocalを獲得した二人のソウルフルな歌唱は圧巻です。


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ミック・ジャガーデヴィッド・ボウイ
ミックとボウイ、二人のカリスマがデュエットしたこの曲Dancing In The Streetは、マーサ&ザ・ヴァンデラスが60年代に放ったヒット曲のカバーでした。チャリティ・シングルとしてリリースされ、全英1位、全米7位のヒットに!リリースと同じ年に行われたチャリティ・イベントのライヴ・エイドでは、イギリスで出演するボウイと、アメリカで出演するミックが衛星中継でこの曲を共演するというプランがあったそうですが、当時の技術ではどうしてもタイムラグが生まれてしまうとのことで、残念ながら実現しませんでした。


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フィル・コリンズとマリリン・マーティン
1984年に映画『ストリーズ・オブ・ファイア』のサントラに参加していたマリリン・マーティンですが、一躍注目を集めたのは、このフィル・コリンズとのデュエットでした!映画『ホワイト・ナイツ』に使われ、全米1位、全英4位を記録。このヒットで、その名を知られるようになりました。



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ピーター・セテラエイミー・グラント
クリスチャン・ミュージックでミリオン・セラーを記録する人気シンガーだったエイミーですが、ポップ・チャートで人気を獲得するきっかけが、このピーター・セテラとのデュエットでした。ボビー・コールドウェルが書いたこの曲で、全米1位を獲得しました。



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マイケル・ジャクソンとサイーダ・ギャレット
ドナ・サマーやマドンナなどのバック・ヴォーカルをつとめていたサイーダですが、このマイケルとのデュエットで一躍有名になり、全米1位、全英1位を記録し、その後のクインシー・ジョーンズ作品でも数多く起用されることになりました。


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大物同士のデュエットばかりですが、中には大物と新人で、これが切っ掛けで売れっ子になったシンガーもいます。

才能あるもの同士がコラボすると名曲が生まれ、

名曲は時が経っても色褪せることが有りませんね。
 
 

80年代の歌姫に首ったけ💘

80年代の歌姫に首ったけ💘 

80年代の歌姫に首ったけ💘 80年代
ネット配信が出来る遥か昔‥
情報を仕入れるにはラジオかテレビしかない時代‥
洋楽好きな青年は深夜にMTVを観て、ラジオを録音してWラジカセで編集したりして聴いていました。
この頃はオーディオを持つことが夢で、バイトしたお金は全てオーディオに注いだことを思い出します。
アンプはサンスイ、スピーカーはダイヤトーン、チューナーはトリオ、カセットデッキはアカイと言ってたあの頃が懐かしいです。

良いオーディオを揃えると良い音楽が聴きたくなるもの。
歌が下手くそなアイドルなんて言語道断!
そんな透かした青年は80年代を洋楽と共に過ごした。

ある日、いつもの如くMTVを観ているとウエディングドレスを着たセクシーな美女がクネクネしながら歌ってる映像が流れだした。

私は目を奪われた‥

その映像に映っていたのはマドンナ



マドンナ
マドンナ・ルイーズ・ヴェロニカ・チッコーネ(本名:Madonna Louise Ciccone、1958年8月16日)は、アメリカ合衆国ミシガン州出身のポピュラー音楽の歌手、女優、作曲家、ダンサー、ギタリスト、映画監督、文筆家、実業家。

シングル・アルバムのセールスは2億7000万から3億枚以上とされる『史上最も売れたアーティスト』4位、世界で最も売れた女性アーティストである。

最初、マドンナと聞いて映画の寅さんが好きでこの名前にしたのかな?と思った。
韓国人が「韓国のドラえもんを応援してくれてありがとう!」と言ってるの同じくらい恥ずかしい勘違いをしていた。


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それと忘れてならないのがシンディ・ローパー
洋楽好きの友達とはシンディー派かマドンナ派で分かれることが多かった。
日本で言うと聖子派か明菜派か?みたいなもんですね。



シンディ・ローパー
(Cyndi Lauper、本名:シンシア・アン・ステファニー・ローパー(Cynthia Ann Stephanie Lauper)、1953年6月22日 - ) は、アメリカ合衆国の歌手・女優。グラミー賞エミー賞トニー賞の受賞経験がある。


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カイリー・ミノーグ
カイリー・アン・ミノーグ OBE(Kylie Ann Minogue, OBE, 1968年5月28日 - )は、オーストラリア・ビクトリア州メルボルン生まれのシンガーソングライター、女優である。2019年現在はイギリスに住居を移し、同国を主な活動拠点としている。身長153cm

外人なんだけど小さくて華奢で可愛くて唄が上手い。
「ロコモーション」と「ラッキー・ラヴ」は何度も聴いたなぁ‥


Come on baby do the loco-motion♪

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ネーナ
Nena, 本名ガブリエレ・ズザンネ・ケルナーGabriele Susanne Kerner 1960年3月24日 - )は、ドイツの歌手、女優。もしくは1987年に解散した、彼女がヴォーカルを務めた同名のバンドをさす。このバンドが1983年に発表した代表曲『ロックバルーンは99』(原題:99 Luftballons)の世界的ヒットで知られる。

ドイツ語で唄う『ロックバルーンは99』が新鮮でネーナが可愛かった。
その可愛いネーナに黒々とした腋毛が生えていたのを視た時は衝撃的でした。
当時の私は女性にはヒゲと同じように腋毛は生えないと思ってましたから‥


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シーナ・イーストン
Sheena Easton, 1959年4月27日 - )は、イギリス・スコットランド出身の歌手。

宝酒造 宝焼酎「純」のCMで着物着て唄ってるのが最高にCOOLでした。
歌も上手いし、綺麗だしで最高ですね💖



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ベリンダ・カーライル
(英: Belinda Carlisle、本名:Belinda Jo Carlisle、1958年8月17日 - )は、アメリカ合衆国の歌手である。アメリカ人の歌手であるが、主にヨーロッパ、日本で人気が高く、特にイギリスではヒット曲が多い。元ゴーゴーズのヴォーカル。

ベリンダの歌はメロディーがよくてリラックスして聴くには最高でした。



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スザンヌ・ベガ
スザンヌ・ヴェガ (Suzanne Vega、1959年7月11日 - )は、アメリカ合衆国出身の女性シンガーソングライター。

代表曲「Luka」らのヒットで知られる、同国を代表するポップシンガーの一人。10代の頃より始めた作詞・文学・演劇を背景に、社会派のアーティストとして非凡な才能を発揮し、数々の賞を獲得している。2008年『グラミー賞』受賞。

作詞作曲を自分でこなして、ギター一本で引き語りで歌を唄う女性シンガーは当時は少なかったと思います。



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シャーデー
Sade、英語発音: [ʃɑːˈdeɪ] シャーデイ)は、イギリスのバンド。シャーディーと表記されることもある。女性ソロ歌手だと誤解されることもあるが、女性ボーカルとバックミュージシャンから成るバンドの名称です。

彼女を最初に観たときに、そのエキゾチックな色気に一発でやられました。
若いのに大人びた声と衣装で、これを聴いている俺って大人だなと思っていたのを思い出します。



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80年代の洋楽は聴きまくったので、他にも好きな歌姫は数え切れないほどいます。

多分、80年代洋楽でイントロクイズをやったら私に勝てる相手がいないのではないか?
‥と思えるくらい今でもドライブ中に聴きまくっていますし、CDコレクションも半端ないです(≧▽≦)

80年代の女優に首ったけ💘

80年代の女優に首ったけ💘 

80年代の女優に釘付け💘
80年代
インターネットが出来る遥か昔‥
情報を仕入れるには雑誌しかない時代‥
映画好きな青年は映画雑誌のスクリーンとロードショーの付録と内容を見比べて、少ないお小遣いでどちらか一つを買っていました。

いつも買う近所の本屋さんとは顔なじみになったので、毎月、私が買ったのとは違う方の付録を売れ残った場合は捨てずに取って置いてくれて、次の月にはオマケでくれました。

また、パンプレット専用のフォルダーを通販で買って映画館にセコセコ通い、コレクションしたりしていました。

周りがアイドルに現を抜かしてる状況で、私はハリウッドスターに憧れ、
音楽は洋楽しか聴かない、どこか透かしてる青年でした。

そんな私が最初に恋した女性がソフィー・マルソーです。
初めて見た時、
 
 
『うわ!めちゃ好み♡』
 
 
と思いました。

彼女の映画には興味がありませんでしたが、スクリーンとロードショーを買う判断材料として、彼女の写真がより多く記載されている方を選んでいた記憶があります。
 
(Sophie Marceau、1966年11月17日 - )はフランス・パリ出身の女優。

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(Jennifer Lynn Connelly, 1970年12月12日 )は、アメリカ合衆国の女優。

彼女を初めて見たのはラビリンス魔王の迷宮というデビット・ボウイと共演した映画でした。
まだあどけない少女で私と歳も近いこともあり、また可愛い子が出て来たなぁと嬉しく思いました。
今も女優として活躍中で可愛いから美しいに変貌を遂げています。

 
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メグ・ライアン(Meg Ryan、本名:マーガレット・メアリー・エミリー・アン・ハイラ、Margaret Mary Emily Anne Hyra、1961年11月19日)は、アメリカ合衆国の女優。
 
この頃のメグはキュートでチャーミングで素敵でした。
 
 
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リー・トンプソン(Lea Thompson, 1961年5月31日)は、アメリカ合衆国出身の女優。
 
バック・トゥ・ザ・フューチャーで主人公の母親を演じていました。
チャーミングで凄く可愛かったです。
 
 
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ジョディ・フォスター(Jodie Foster, 本名: アリシア・クリスチャン・フォスター、Alicia Christian Foster, 1962年11月19日)は、アメリカ合衆国の女優、映画監督、映画プロデューサー。

彼女は可愛いというより、美しく、そして格好いいというイメージです。
レズビアンであることをカミングアウトしましたが、彼女になら抱かれてもいいと思った女性は多いのではないでしょうか?
 
 
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Phoebe Cates , 1963年7月16日)は、アメリカ合衆国ニューヨーク出身の女優。ただし、現在は主婦業に専念しており、女優業はしていない。

80年代に大人気で雑誌の表紙を飾ることが多かったアイドル的女優です。
ちなみに姪っ子にそっくりで親近感が湧きます。
 
 
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(Diane Lane, 1965年1月22日 - )はアメリカ合衆国の女優。
映画ストリート・オブ・ファイアーが大好きで何回観たか分からないほど鑑賞しました。
媒体もVHSから始まり、LD➡DVD➡BD➡iTunesとベストで視聴できる環境に常に移行して鑑賞するくらい大好きな映画です。
 
 
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(Demi Moore, 1962年11月11日 - )は、アメリカ合衆国の女優。
あどけなさの残るイノセントなベビー・フェイス、ショートカットと澄んだ瞳の知的な顔立ちと豊満な肉体とのアンバランスが耳目を集め、1980年代後半から1990年前半の米国でトップスターとなりました。
ゴーストニューヨークの幻でのショーヘアでボーイッシュな恰好が萌え萌えでキュンキュンしました。
 
 
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(Sharon Stone, 1958年3月10日 - )は、アメリカ合衆国の女優。
氷の微笑で足を組み替えるシーンで彼女はノーパンでした。
ビデオデッキで何度も繰り返し再生して確認したあの頃が懐かしい。
 
 
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Brooke Shields, 1965年5月31日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク市出身のモデル、女優。本名はクリスタ・ブルック・カミール・シールズ(Christa Brooke Camille Shields)。身長183cm。

絶世の美女
この言葉ほど彼女を表現する上で当てはまる言葉はないでしょう。
スーパーモデルと言って私が一番に思い浮かぶのはブルック・シールズです。
 
 
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どうでしょう?

80年代の女優は皆、美しい方ばかりだと思いませんか?

目の保養に成りまくりですよね💖

但し、今現在の彼女たちを検索するのは無しですよ💦

一部を除いてはね😉
 

もしも友永真也が靴を選んだら

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限定品でネット販売では品切れのスタンスミスを見つけたので、その時の心境をバチェラー3の友永真也風に語ってみたいと思います。



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今日は包み隠さず全て話します。


運命の靴を探しに靴屋に向かってたんですね。

正直めちゃくちゃ悩みました。

アディダスか、ナイキか。


でも気付きました。


今真剣に求めてるのは、シンプルで合わせやすい靴なんですね。

それだとスタンスミスが合うと思ったんですね。

そしたら、合うサイズが置いてなかったんです。


売り切れたんやなって‥そう思いました。


それでも、僕は諦めきれませんでした。


この意志の強さがどこから来たのか……

正直、真剣に悩みました。

僕の普段選ぶサイズは27.5なんですね。

店には27.0しかなくて‥(泣く)

でも履けないサイズではないと思ったんです。

この時は、ほんまに最後の最後まで悩みました。

そして最後はスタンスミスに🌹薔薇を‥(ちゃうちゃう)


スタンスミスを選んだんですね。


スタンスミスには感謝しかないですね。

そこに関して何の嘘もないです。


俺はスタンスミスとこの先一緒に歩んでいきたい。そう決めたこの答え、全く後悔していない。
 
ほんまに、ありがとう(涙)



【後日譚】
『エピローグ ~本当の結末~』


突然のことなんですけど、スタンスミスとお別れしてきました。

スタンスミスのことを好きになってました。
でもどうしても心の中でナイキが忘れられなくて、日増しにその気持ちが強くなってきました。

このタイミングでお別れすることがどれだけ迷惑かかるか覚悟の上で決断しました。


今日は包み隠さずに全部言います!

何回、靴選びをやったとしても僕はあの環境だったら同じことをしてる。

あのときはめちゃくちゃ真剣に考えてスタンスミスを選んだからこそそこに関しては何の嘘もない。

家族にも「お前は何やっているんだ、わがまますぎるやろ。スタンスミスのことを考えろ」と激怒されました。

今から僕はナイキと人生を共にしていく、その覚悟で2人で歩んでいきたいと思います。