志村けんさんは子供の頃、私のヒーローでした!

志村けんさんは子供の頃、私のヒーローでした! 

志村けんさんは子供の頃、私のヒーローでした! 当時、小学生だった私は毎週土曜日の8時に始まる『8時だョ!全員集合』が楽しみで仕方ありませんでした。

月曜日には教室で友達とドリフの話で盛り上がり、コントのマネをしたものです。

当時はカトちゃんの「ちょっとだけよ❤️」の意味も分からずマネごとをしていました😆

そんなドリフターズのメンバーも長さんが亡くなり‥

そして志村けんさんまでも天国へと旅立ってしまいました😢

私達が子供の頃にドリフターズに出会えて本当に良かった。

当時は子供の教育によくないと反対する親もいましたが、今のようにネットやYouTubeなどもない時代はドリフターズこそが心のオアシス‥いやヒーローでした。

志村けんさん、

笑いをありがとう。

ご冥福をお祈りいたします




ドリフターズのメンバーが志村けんさんを語った貴重なコメントを紹介します。



いかりや長介
いかりや長介志村けんとの出会い」


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8時だョ!全員集合』が始まる1年前の1968年2月。

志村はいかりやの自宅を苦労して調べ、新宿から30分トボトボ歩いて、いかりやを訪ねた。

しかしいかりやは仕事で留守。仕方なく志村は玄関口で12時間待ち続けた。雪の降る寒い日だったという。

ようやく現れたいかりやの顔の迫力に驚きながらも、弟子入りを志願した志村にいかりやは「ボーヤで苦労する気があるのなら」と答えた。「ちょうど辞めそうなのがいるからその時連絡する」と。

志村のもとに連絡が入ったのはそれからわずか1週間後のことだった。

後楽園ホールに呼び出された志村は新しいボーヤとしてメンバーに紹介された。

まだ高校の卒業を控えていた志村は「4月からやらせていただきます」というと、「バカヤロウ、明日からだ!」とさっそくいかりやの雷を浴びたのだ。





加藤茶
「たけしとの対談で志村けんを語る」


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ザ・ドリフターズ加藤茶がたけしの番組のスペシャルゲストとして出演して、たけしとお笑い談義を繰り広げた頃がある。
かつては『8時だョ! 全員集合』と『オレたちひょうきん族』という人気番組に出演するライバルとして激しい視聴率争いを繰り広げてきた2人が、貴重な共演を果たしたことになる。先輩である加藤がたけしのことを「たけしくん」と呼び、たけしが後輩らしく気を使っている姿が印象的だった。

2人の会話の中で特に興味深かったのが、1974年に荒井注がドリフから脱退して、付き人だった志村けんが加入したときのエピソードである。荒井注の脱退はドリフのメンバーにとっても青天の霹靂だった。これまで通りのコントを続けていくためには、新しくメンバーを加えるしかない。

当時、ドリフには新メンバーの最有力候補と噂されている人物がいた。
ドリフの付き人を務めていたすわしんじ(現・すわ親治)である。
すわは準メンバーのような形で『全員集合』にも何度も出演していた。




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ブルース・リーのモノマネで奇声を発して舞台を横切っていくギャグが評判だった。







「6人目のドリフ」と言われるほどの活躍ぶりだったのだ。
そんなすわに関して、たけしも番組内でこう述べていた。

「俺らは見てて、笑い取るのはあの当時ブルース・リーのが取ってたような気がするんだよね。だけど志村のけんちゃんは、どうして勝ったのかなっていうと、ネタが広いのかね」

なぜすわではなく、志村が選ばれたのか?
この素朴な疑問に対して、加藤は意外な答えを返した。
実は、いかりやの当初の予定では志村でもなくすわでもない、別の人物を加入させる予定だったというのだ。

「長さん(いかりや)がね、荒井さんと同じ年のやつを入れようと思っていたのよ」

その人の名前は豊岡豊
豊岡豊とスウィング・フェイス」というバンドのリーダーとして指揮者を務めていた人物だ。
いかりやは、個人的に親交が深く、笑いのセンスもあった豊岡を加入させようとしていた。

しかし、加藤はそれに反対した。

テレビの仕事や営業を長年一緒にこなしてきて、ドリフのコントの作り方もよく分かっている志村を加入させた方がいい、といかりやを強く説得したのだ。
結局、いかりやが折れて、新メンバーは志村になったというのだ。
そして加藤のこの行動がその後のお笑い界の歴史に大きな影響を与えることになる。ドリフに加入した志村は、初めのうちはなかなか活躍できなかったものの、「東村山音頭」のギャグなどをきっかけに頭角を現し、加藤と人気を二分するドリフのエースとなった。







その後、『8時だョ! 全員集合』が終了すると、加藤と志村だけを残す形で新番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が始まった。
そこから現在に至るまで、志村はテレビやライブで長年にわたりコントを演じ続けるお笑い界のレジェンドとなった。

この話を聞いたたけしは、自分を脅かすような存在の志村をあえて加入させたのがすごい、と加藤の行動に感心していた。
加藤によると、自分だけが笑いを取る役目を課せられていて、それを重荷に感じているところもあったのだという。
「ちょっとだけよ」「すんずれいしました」「ウンコチンチン」などの伝説的なギャグの数々で日本中を爆笑の渦に巻き込んできた加藤は、華々しい活躍の影でそれだけの苦労を重ねてきたのだ。





仲本工事
「志村は誰よりも新しい笑いに貪欲なんですよ」



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―― 『全員集合』の途中で、メンバーが荒井注さんから志村けんさんに変わりました。付き人時代の志村さんの印象はありますか?

仲本 志村はやる気があったから、付き人やりながら自分でコンビ組んで、営業の仕事もしてたんです。本当に一生懸命でしたね。コンビのネタは、志村が全部考えてたんだよね。でも、志村がウンウン考えてる横で、相方は新聞の求人広告見てたんだってさ(笑)。そういうところは苦労してるし、荒井がやめて志村が入ったときも、慣れるまで大変だったと思うよ。まさに志村は努力家だよね。

―― 仲本さんが感じている、志村さんの魅力って何でしょう?

仲本 誰よりも新しい笑いに貪欲なんですよ。とにかくいろんな笑いや音楽を見たり聞いたりしてましたね。それを取り入れるのがすごく上手かった。ほら、早口言葉の音楽があるでしょ。「生麦 生米 生たまご イェー!」っていうの。あれも、志村が「これがいいんじゃないですか」って言うんでそうしたんだよ。

―― 加藤さんの魅力とはまた違いますか?

仲本 加藤は天才だもん。思わず口について出ることが面白いし、いるだけでホッとするとこもあるしね。テレビに出始めのころなんて、ほんとにかわいくて、いい男でしたよ。今でいうと、お笑いもできるアイドルみたいだよね。だから加藤は天才、志村は秀才かな。





高木ブー
志村けんが加入した当時を語る」



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どうして志村けんが加入したのか?
―― 1969年に『全員集合』が始まり、最高視聴率50%超のお化け番組になっていきますが、5年目に荒井注さんが体力の限界を理由に脱退します。あれは直前に聞いたんですか?

高木 うん。一応、いかりやさんから僕のところにも話があった。これからどうしようかって。僕は「4人じゃおかしくないか」って意見を言ったかな。「全員集合」って言葉は、番組が最初じゃないんですよ。ジャズ喫茶のとき、音を間違えると、いかりやさんが真ん中で「全員集合」って叫ぶの。そしたら、両サイドから2人ずつ集まってくるっていうギャグをやってた。それが2人と1人だとバランスおかしいでしょって、言ったことあるよ。まあ、それだから志村を選んだわけじゃないだろうけど。


―― 志村さんはドリフのボーヤ、いわゆる付き人だったんですよね。ボーヤ時代の志村さんで、何か印象に残ってることはありますか?

高木 うーん……。ボーヤだねって印象しかないかな。

―― 他のボーヤの方との違いなどは。

高木 ボーヤはいっぱいいたからね。志村は、「マック・ボンボン」というコンビを作って一度独立して、またボーヤで戻ってきたの。あと、すわ親治って知ってる?

―― はい。すわさんもドリフのボーヤで、『全員集合』のコントにも出演してましたよね。

高木 志村がいなければ、すわ親治が入ってたでしょうね。

―― 当時は、すわさんが加入するという噂もあったそうですが、どうして志村さんになったんですか?

高木 順番でしょう。荒井注が辞めて志村、次に僕が辞めたらすわ親治、そんなところでね。



―― ドリフ加入後の志村さんは、どんどん人気者になっていきますが、高木さんはどんな風に見ていましたか?

高木 それはまあ、しょうがないよ。これは年齢の違いもあるんだろうけど、加藤に対する志村のツッコミ、あの呼吸には僕ら、かなわないもんな。今の漫才の人たちは動きができないけど、加トケンの動きっていうのは、ちょっと大変なもんだよね。